認知症と介護

視聴記録:『認めあう幸せ』若年性認知症と支えあう家族会

2021年10月31日12時~BSフジにて放送された、FNSドキュメンタリー大賞受賞作『認めあう幸せ』の視聴記録です。(制作:石川テレビ/2020年5月放送)

若年性認知症と診断された男性のその後

2019年に63歳で若年性認知症と診断された理学療法士の塚本彰さん。60歳まで理学療法士として勤め、その後すぐに老人ホームに再就職。しかし、63歳に若年性認知症と診断を受けて退職。その後、地元の福祉施設『かがやき』が理解を示し、そこで働くこととなりました。

取材を依頼された塚本さんは、若年性認知症と診断された自身が放送されることを考えた末に、世の中の為になるのならと承諾されたそうです。

若年性認知症の人が働くには施設の理解と協力がカギ

施設では、塚本さんのためのスケジュール表が用意されていました。何時に何をするかが写真付きで書かれています。
本人は、写真があったほうがいい。文字だとわかりにくいと言っていました。

施設長は、「1人でやってもらうのは心配」と話します。利用者の中には言葉を発することが難しい人もいます。そういった人に対しては、職員側が利用者の状態を見て、状況を理解し判断していかなければいけません。施設長は、塚本さんは病気のために利用者の状態を読み取る力、そこから判断していく力がないと感じていたのです。

塚本さんはパソコン作業も苦手です。入力はぎこちなく、職員にサポートしてもらってもなかなか進みません。そして、「〇〇さんはどう。自分で立ってくれた?」と聞いても、「…」と言葉が詰まり、「…そうやね…」と思い出せない様子でした。

若年性認知症の為、自分が行ったこと、利用者の様子を覚えておくことができません。その時は会話をして理解できても、少し経つと忘れてしまうのです。

制作を行った石川テレビの人が「仕事は楽しいですか?」と聞くと、「ある程度のことが出来れば楽しい、出来ないと落ち込む」と答えていました。

その後も妻のサポートで仕事を続ける

1人では不安も大きかったため、その後は沙代子さんがサポートについて仕事を続けることになりました。施設の人と沙代子さんが、今後について話し合いをしていきます。沙代子さんは関わっていけると安心できると無償でのサポートに積極的です。主にスケジュール管理と、利用者の記録を担当していました。

異変に気付いても妻は夫の病気を認めたくなかった

妻・沙代子さんや娘たちが異変に気付いたのは2年前。
妻は夫を連れて何度か病院には言ったものの、娘に対して「大丈夫みたい」と、伝えてしまいます。いい方にいい方にと持って行こうとしていたと娘たちは感じていました。
ある時、長女は『認知症の家族会』があるからそこに行かないかと誘ったそうです。「断られると思った」と話す長女の予想に反して、沙代子さんは「行く」と言ったそうです。家族会に行ったことで初めて認知症であることを認め受け入れました。

認知症の家族会が心の支えとして機能する

塚本さんが訪れたのは『若年性認知症の人と家族と寄り添いつむぐ会』です。石川県金沢市で認知症カフェを毎月開催。若年性認知症の本人と家族の居場所を作り続けています。
語り合える場があるかないかは、当事者たちにとって精神的な不安が大きく違ってきます。
それは、若年性認知症に限らず多くの病においていえることです。

金沢市に暮らす中島禮子さんは2010年、63歳の時に若年性認知症と診断されました。夫の賛太郎さんは仕事を辞めて介護に専念して決ましたが、それから10年、意思疎通も難しくなってきています。そんな禮子さんも、月1回のこのカフェでは笑顔を見せるといいます。
賛太郎さんは、最初の頃は「戻ると思っていたから怒ってしまった」と後悔を口にしていました。

この家族会の立ち上げメンバーであるシンガーソングライターのノンシャンさんは、友人が30代で若年性認知症になり、母親も52歳で若年性認知症になるという経験をしています。

52歳で母親が若年性認知症になったノンシャンさん

ノンシャンさんの母親は、52歳の時に若年性認知症と診断されました。

この番組ではさらっと語られていましたが、熊谷わこさんの取材による記事を見つけましたので、それを元にノンシャンさんの母親の若年性認知症について書いていきたいと思います。

ノンシャンさんが母親の異変に気付いたのは、認知症と診断される2年前でした。父親が経営していた会社が倒産し、家を手放すことになったため、ノンシャンさんは片付けの為に実家に戻っていました。その時、一向に片付けられない母親をみて「あれ?」と異変に気付きます。しかし、当時は認知症という言葉もあまり浸透しておらず、認知症とは全く思わなかったそうです。

それから半年後に、母親が掃除で机の下にいることに気づかず立ち上がろうとして頭をぶつけたのを機に脳外科へ。認知症とは思っておらず、今のように物忘れ外来があるわけでもないので、脳外科の医師に症状を話しましたが、そこでは診断がつきませんでした。
まだまだ認知症がの認知度が低かったのです。

さらに1年後、ソーシャルワーカーに相談すると、精神科の医師に繋いでくれて、そこで若年性認知症という診断がついたそうです。

父親の行動が家族を救う

驚いたのが、その時のノンシャンさんの父親の行動です。
ノンシャンさんが、病気のことを父に伝えた時、「ああそうなの」と受け入れ、「大丈夫!周りの人に協力してもらおう!」とすぐに行動に移しました。回覧板などで近所に病気を伝え、「みんな助けてね」とお願いをしていたそうです。
すぐに周りの人に協力を求めるなんて、なかなかできないですよね。

さりげなく母親の居場所を作った父親

倒産の1年後に新しい会社を立ち上げた父親は、母親を連れて仕事へ。近所の喫茶店やカラオケ店などに、「今日のご飯食べさせておいて!」と頼むと、皆さん協力して助けてくれたといいます。そうやって、母親が安心して居られる場所を作っていたのです。

ノンシャンさんは「母が書いていた日記には「嬉しい」「幸せ」「大好き」ばかり。字が書けなくなるまでずっとそう書いていました」と語っています。
「病気はちょっといじわるな友達。でも、ちょっとだけ」とも書いていたそうです。

イライラしても本人にぶつけることはなかった父親

父親は家に「イライラしない」「優しくする」と張り紙をして、イライラしても抑えるようにしていました。ノンシャンさんも、イライラした時は「母の本質は何も変わらない。これは病気のせいなんだ」と考えるようにしていたといいます。

ノンシャンさんの父親はその後2015年にノンシャンさんのライブ会場で他界。それを追うように1年後に母親も亡くなったそうです。

介護の仕方によって認知症の本人が感じる世界は変わるのだと実感できました。
必要なのは「安心してここにいていいんだ」と本人が感じられるということなのだと感じたインタビュー記事でした。

認知症カフェはコロナ禍でオンライン開催に

月1回の認知症カフェはコロナ禍でオンライン開催になっていました。

その会で、塚本さんは友人の勧めでウクレレを始めたと発表しました。塚本彰さんが「糸(中島みゆき)」をウクレレで弾き、それに合わせてノンシャンさんと妻の沙代子さんが歌います。沙代子さんはさらに踊りも披露しました。

『若年性認知症の人と家族と寄り添いつむぐ会』のFacebookページによると、2021年10月現在、「引き続き、「対面」の回と「オンライン」の回を分けて開催します。オンラインでの参加をご希望の方は、お電話か Facebook でお問い合せ下さい。」とのことです。